ワ-グナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」全曲 Richard Wagner : Parsifal

ヘルベルト・ケーゲル(指揮) Herbert Kegel : Conductor
ライプツィヒ放送交響楽団 Rundfunk-Sinfonie-Orchester Leipzig
パルジファル:ルネ=コロ René Kollo [Parsifal]
グルネマンツ:ウルリク=コル Ulric Cold [Gurnemanz]
アムフォルタス:テオ=アダム Theo Adam [Amfortas]
クンドリー:ギゼラ=シュレーター Gisela Schröter [Kundry]
ライプツィヒ放送合唱団 Rundfunkchor Leipzig
ベルリン放送合唱団 Rundfunkchor Berlin
Recorded:1975

パルジファルを聴いていつも思うことがある。長い。とにかく終点が遙かに遠く、はてしなく永く感じる。最初から最後まで通しで聴くなどという離れ業が可能な人はごく限られている。モチベーションの高いワグネリアンでも、聴く、観るに際しては十分な時間と気合いが必要だ。そんな中で重要な事はなんだろう。ことパルジファルについては、とにかく聴く者を「飽きさせない演奏」が大事なのだ。クナだったら飽きないだろうか。いや飽きる。言い過ぎだろうか。そういう極端な切り口で考えるとケーゲルのパルジファルは実際、通しで聴ける。感覚的なもの言いで恐縮だが、それほど私にとっては集中力の保てる演奏なのだ。1978年のライブ収録とは思えない音の広がり、凄まじい臨場感がある。配役も最高の布陣だ。個人的には悪く言えば年老いた少し低音のしわがれ声が好みだが、ウルリク=コルトのグルネマンツもこれもなかなか良いではないか。ルネ=コロのパルジファルも若さに脂がのっている。テオ=アダムのアムフォルタスも切実な嘆きを表現している。そして何よりもケーゲルの指揮ぶりである。まじめな話、誇張なしに心に染み入る音色が存在する。弦も素晴らしいが、木管もはっきりしている。トランペットをはじめとする金管も良い。要所をついて高音部で大きく鳴らして聴く者を目覚めさせる。耳障りにならないギリギリの線かもしれない。でもケーゲルの個性を感じるところでもある。私は全幕を通じて、第一幕終わりに差し掛かる“愛餐の動機”から始まる「聖なる宴」の出だしが一番のお気に入りなのだが、ここでの信仰合唱の始まりが本当にいい。当方、少年少女の合唱に極めて弱い人間である。その歌声の透明感から来る彼らの純粋さを思う。ここでの反射的な響きは教会の中で聴いているかのような、それは荘厳さなのか、神聖な音の響きなのか何とも、言い表すことも憚られる。しかしその後の展開においても劇中の情景をも明確に脳裏に浮かばせる。パルジファルに期待するパルジファルを除く総ての人間たちと、その期待に応えられない愚者パルジファル自身を。これを聴く者にその時に何を感じさせるのか。喪失感なのか、蔑みなのか、それとも諦めなのか。年齢、例えば豊富な経験に基づけば自ずと愚者ではない答えを導き出せるものなのか。いやいや我々も愚者のひとりであるはず。この場面は達観して語ることは難しい。自身を省みてみると、聴くその時点での精神状態においても様々な感じ方があったのかもしれない。平然と聴けるようであればある意味、正常であった。逆に意味も無く感傷的にホロホロときたり、理由もなくもうこれ以上聴き続けられない状態に陥るとか、ボリューム音量を大きくしてしまう、などということを起こしてしまうと、それは何かしら普通でない状態であるといってよい。やはり愚者の振る舞いだったのだ。
私にとってパルジファルは、特別な存在である。演奏にブレは許されない。一点の曇りもあってはならない。ケーゲルの、このCDは総じて完成されたもので実に願いに叶ったものである。パルジファルをきちんと聴けなくなったときがワグネリアンの終わりと思うが、このケーゲルの録音がある限り先は長いと信じたい。