「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、「タンホイザー」序曲、「ローエングリン」前奏曲、「さまよえるオランダ人」序曲
ウィレム=メンゲルベルク(指揮)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 Recorded:1927-1940
ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 Recorded:1925
ウィレム=メンゲルベルクが世に音源を残し早100年近くも経つのである。この指揮者は、戦前のドイツテレフンケン社の最高水準の録音再生技術を得て、比較的多くの演奏を後世に残している。とはいえSPレコードから始まりLP、CDへの変遷を知らない方にはこの音質は聴くには堪えがたいものかもしれない。しかし最初は耳になじめず抵抗感を持って接したかたちであっても、がまん強く聴けば、雑音色にも慣れ次第に脳裏に染み入る感覚が得られるに違いない。そして彼の指揮する多くの作品の解釈に触れ、理解に費やした時間の分だけ、かえって個性をより強く感じるというものだ。私は国分寺の名曲喫茶「田園」でこの指揮者の演奏に出会った。もう30数年前のことである。衝撃的だった。そして吉祥寺サンロードにある「山野楽器」の二階には青帯のメンゲルベルクのCDがどういうことか、ズラリ鎮座していた。LPがようやくCDに置き換わり始めた頃だったかもしれない。そんな二つの偶然が重なったのだ。私は一つ買っては好きになり、また一つ買ってもう病みつきになる。以降、異なる盤で発売されるたび、音源が同じものでもついつい何度も買ってしまう。少し呆れた有様だった。少しでも音が良くなっているのでは無いかと胸を膨らませるのだが、その期待は勿論、裏切られるのが常であった。今思えば当たり前なのであるが。LPレコードも中古でたくさん買った。LPにはLPの良さがあり、指揮台からタクトをつまみ、チューニングの音合わせまで通しで録音されたものなど臨場感のあるものもある。
彼の歴史的な音源は、どんなに音が悪く割れるようなものであっても作曲者に対する独自の解釈と情熱から100%受け入れてしまう。例えばシューベルトの「グレート」やドボルザークの「新世界から」などにみられる、とても情熱的な部分とそれと対照的に甘美な音色を織り交ぜる、そんな独創的な手法を用いる指揮者が他にみられるだろうか。チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」などは他の演奏よりよっぽど正統な感じがしてならない。ワーグナーの管弦楽曲集についてみても「ローエングリン」の前奏曲を聴いたりすると、アゴーギク、ポルタメントを駆使することで実に感傷的に仕上げている。全曲録音が残せない時代であるが、序曲、前奏曲では物足りない、ああこの甘美な感じで第三幕のラストを描いたらどんなカタルシスを得るんだろうと思いを馳せる。いつ聴いても期待通りの展開が待ち遠しく、聴く楽しさが一杯なのだ。当然、人によって好みは異なるだろう。また作曲者の意図から逸脱した勝手な解釈をしている、と言われることもありそうだ。それでも私はこの指揮者の演奏を歓迎したい。月日を経てもCD棚のなかからわざわざ取り出してしまう。そしていつもワクワク感を持って手に取り、夢中になったあの頃を想い出す。私はちょっと褒めすぎだろうか。
※メンゲルベルクのワーグナー演奏は序曲、前奏曲の録音が多く、他の名曲とカップリングされているCDが多かったようである。