ワ-グナー:管弦楽曲集

 

「リエンツィ」序曲、「恋愛禁制またはパレルモの修道女」序曲、「タンホイザー」序曲、バッカナール、「パルジファル」第一幕への前奏曲、聖金曜日の音楽

ジュゼッペ=シノーポリ Giuseppe Sinopoli(指揮)
ドレスデン・シュターツカペレStaatskapelle Dresden
Recorded:1995

ジュゼッペ=シノーポリが指揮のさなかに倒れ不慮の死を遂げてから20年を超える年月が経とうとしている。この指揮者は日本の音楽愛好家の一部から熱狂的な支持を集めていた。そして彼のマーラーやブルックナーを一所懸命聴いていた、そんな時期がある。レコードの針音やテレビから受ける彼の映像はとても新鮮で切れまくっていた。指揮ぶりはマーラーのカリカチュアのごとく規則正しい動きで振られ、直立不動で姿勢正しく、そして堂々としていた。実に格好が良いのであった。一度でいいから生で聴いてみたいと思っていたが、その機会がやってきた。旅の途中で彼のマーラープログラムを見つけたのだ。ミュンヘンの州立歌劇場隣の宮殿ヘラクレスザール、オケはバイエルン放送である。曲目は全体像が掴みにくいことで有名な交響曲第7番「夜の歌」だった。チケットはずいぶん無理をして購入した。前日はよく眠れなかったことを憶えている。第一楽章の弦の出だしからホルンが鳴り出した時、そうこれだ、これがシノーポリなんだ、と感慨もひとしおだった。しかしつらつら聴くにつれ、あれ何かが違う、こんな感じだったっけ、そしてけたたましく鳴り響く最終楽章はもう上の空だった。期待しすぎたのか、ホールの響きが自分の位置にマッチしなかったのか。満ち足りた海岸から潮がさーっと引いていくかの如くに。すっかりと熱が冷めてしまった私には未練も無く、それ以降シノーポリを聴くことをやめてしまった。
もう忘れかけていた頃、ワーグナー好きの私に知り合いが紹介してくれたのが、このグラモフォン盤の管弦楽集である。正直、期待もせずに冒頭のリエンツィを聴いてみた。あれ?この感じは何だろう。シノーポリってこんな演奏を醸し出すんだ。レンジ域も広く澄んだサウンド、それでいて低音域の迫力も感じられる。ドレスデン・シュターツカペレとの相性もまったく素晴らしい。曲の最後は息がピッタリ合って、静寂の中から伝わる残響も十分なもの。彼の準備行動、オケとの綿密なリハーサルがおおよそ想像できる。そういえば以前の感覚はこんなものだったかもしれない。やっぱりシノーポリという人物を誤解していたのは間違いなかった。この演奏はそんな私の誤った意識を再確認するに至った、曰く付きのそして今ではお宝CDの一つなのである。
さてこのお宝にはひとつ特徴がある。それは若きワーグナーがまだ世に認められない時期に作られた作品「恋愛禁制またはパレルモの修道女」の序曲が入っていることだ。舞台はイタリアであるがシェークスピアの「尺には尺を」が原典である。この喜歌劇は所謂、ワーグナーのお蔵入り作品である。マルデブルグベートマン歌劇団の音楽監督を始めた頃の若き日の作品で、興業自体は上演数たったの2回、しかも客席はほんの数席しか埋まらなかったという。わざわざ「またはパレルモの修道女」とあるのは、彼の自伝にこっそり理由が書いてある。「恋愛禁制」ではあまりに直接すぎて、当時の官憲に対して彼なりの少し気をつかった言い回しだったようだ。(W協会では「恋は御法度」として対訳を出しています。背景を考慮するとこのタイトルもなかなか面白い。)
今日ではこの作品の上演は皆無、序曲ですらあまり演奏されることもない。CDなどの録音を探してみても膨大な序曲、前奏曲の量にしては非常に少ないのである。個人的には繰り返されるカスタネットの響きがちょっぴり耳に触るのだが、シノーポリはたいそう華やかに楽しく演奏している。この作品を完成させた直後に、ワーグナーは最初の妻であるミンナ=プラーナーと結ばれるという状況があったことも実際、無縁ではないのであろう。後年の作品の暗さというか、深淵の大きさというものとはイメージを異にする、明るさが際立つ序曲である。彼の若き日の作は、当時の夢や希望なるものがその音色から直接的に伝わるのであって、清々しく、なんだか懐かしく感傷に浸ったりすることもできる。タンホイザー以降の作品群とは較べるべきではないと思う。それらはずっしりと重いのだ。もっとも聴くを重ねて味わいもどんどん深まるのであるけれど。
この「恋愛禁制またはパレルモの修道女」の序曲は、ワーグナーのそんな意外な一面を垣間見られる、快作であることも忘れてはならないと思う。