ワーグナー:楽劇『ニーベルングの指環』から『ワルキューレ』全曲
【東芝EMI盤】
マルタ=メードル(S:ブリュンヒルデ)
レオニー=リザネク(S:ジークリンデ)
フェルディナント=フランツ(Br:ヴォータン)
ルートヴィヒ=ズートハウス(T:ジークムント)
マルガレーテ=クローゼ(S:フリッカ)
ゴットロープ=フリック(Bs:フンディンク)ほか

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
Recorded:1954

英EMIに巨匠フルトヴェングラーの残した唯一のリングである。このレコーディング直後に気管支炎を患いそれがもとで天に召されてしまったとのこと。彼の最後の演奏がこのワルキューレの収録であったわけである。四部作の全曲録音が予定されていただけにとても惜しいところであるが、一つだけ残してもらえたと思えば有り難いことである。もっともミラノスカラ座やローマRAI響が演奏したものは全曲盤として残されてはいる。ライブ感は当然こちらに軍配が上がるが、音質に関して言えばまるで遠い席から舞台を観ているかのような感覚で、全曲ともなるとどうにも集中力が続かない。そこから言えばこのワルキューレはモノラルながら素晴らしい出来映えなのである。なお後日、と言ってもこの盤が世に出てから50年あまり経過してからなのだが、日本国内限定で初出した同EMIの別マスターテープによるSACD/CDハイブリッド盤を改めて聴いた際には、これはもう明瞭な音質の良さに大袈裟に言えば、天地がひっくり返るほどであり、科学技術の進歩とは半世紀でこういうことなのかと衝撃を受けたのであるが、まあこの限定盤についてはここではこれ以上、触れないことにしておこう。
ワルキューレにおけるフルトヴェングラーの演奏は、ヴァイオリンの高い音域については吸い込まれるような美しさを持ち、そこに加えてコントラバス陣の低く震えるような響きが、何か心に刺さるような恐ろしさを持つ。二つのコントラストが際立って耳に伝わることで劇的な場面の多いワルキューレでは、雷や嵐などの自然描写がことごとく素晴らしいと感じる。聴き続けると、心が高揚し音に引き込まれる自分が居る。一方、本盤はスタジオ収録であるため当然、舞台のイメージは伝わらないわけであるが、逆に歌手陣との調和も取れており完璧に近いのではないかとも思う。そして多くの見せどころのなかで、私は第二幕第四場の「ジークムント、私を見なさい!」から始まるところをあえて採り上げたいのだ。劇的な場面の多い中ではむしろ地味なシーンではあるのだが、実はこの劇の基軸となる大事なところでもある。意思に反して死の告知を行わざるを得ないブリュンヒルデを演じるメードルの声からは、むしろ神々の長の代理としての「威厳の強さ」を感じる。そしてそれに呼応するようにジークムントを演じるズートハウスの「プライドと頑な意思の強さ」もよく表現されているものと思う。全編にわたり様々な諍いが描かれるが、ここの部分でのバトルは、両者の心が通い合う美しさがある。威厳を保ちながら宣告するもついには同情をしてしまうブリュンヒルデの心情は、レコードでありながらメードルの美声でよく伝わる。この場面で図らずもブリュンヒルデは愛の尊さと優しさを理解してしまい、神の使者たる務めを自らの責で失い、自身にも人の心を植え付けてしまうのだ。ここではフルトヴェングラーは伴奏に徹する。限りなく盛り上げ、弦の響きで聴く者に涙させるのだ。交響曲や管弦楽では味わえない彼の奏でる音の神髄が、このオペラでより一層、持ち味を発揮しているのだ。
フルトヴェングラーのワルキューレは、今もって最高なのだ。ダントツ一押しである。