吉祥寺にバロックという名曲喫茶があった。
吉祥寺北口から西荻窪方向にJR中央線に沿って歩くと10分ほどであろうか、歓楽街の一角に喫茶経営者のビル2階にひっそりと存在する。だがその入り口の右手には有名なジャズ喫茶MEGがあり、ジャズとの両刀遣いを自認するレコード鑑賞愛好家には、壁一枚にして入店直前までどちらを選択するか迷うところであったであろう。内装は数ある名曲喫茶の中でも簡素でありながら、とても清潔でテーブルや椅子には塵の一つもない。店内には無駄なものが全て排除され、中央にはただピカソの鳩の絵が掛かるのみで、かえってその存在感が強調されていた。店主の奥様が活けた綺麗な花々がスピーカー脇を陣取っており、素人目に見ても内部の調和がとれて美しい。むろん生け花の香りはキツいものではなく音楽の鑑賞を妨げない。全体に特に目を引くものは多くなく、壁や床、テーブルに派手さはないが、どことなく高級感がある。嫌みのない落ち着ける雰囲気。全てに理由があり、そつがない。そう、ここが一見さんも怖れを抱くほど静けさと落ち着きを伴う音楽劇場であり、愛すべき名曲喫茶バロックであったのだ。
レコードの収集は都内でもトップかもしれない。その鑑賞リストは数冊にも渡り、クラシック音楽の時代ごとに作曲家別に解りやすくまとめられていた。万年筆による濃紺の手書きリストを眺めているだけで実に数時間はかかるのだが、マニアには飽きのこない、また自らの知らない知識とアーカイブを得るための宝庫でもあったのだ。そして店内の左側、一面のガラスで仕切られた向こう側には、音響の源たるアンプ群が堂々と陣取っていた。機器はジャンルによって、または調子の具合によって使い分けられ、次曲にプリアンプを切り替える音がまた心地良い。いかにもマニアっぽい真面目そうなご主人が機器を操っているのだ。バツン、バツン(スイッチを切り替える音)、微かなジー(スピーカから漏れる音)という音が静寂に微かに響き渡る。この合図を聞くと思わずハッと身構えてしまう、これからの舞台の始まりを感じさせる瞬間なのだった。
注文が可能な飲み物は珈琲、紅茶、ジュースなどのみ。価格は高めであったが、どれもとても洗練されていると感じた。特にブラジルを銘打つネルドリップのスペシャリティコーヒーがあったと思う。コーヒーカップはどれも上品な縁取りの薄い磁器で、いつも器のみならずソーサー、ハンドルまでもが暖められている。入れ立ての珈琲は熱々で、ほどよい酸味が感じられるものであった。口径が小さな10㎝足らずのトールグラスに入った冷水も必ず付いてくる。ただし100ccも入らないそのグラスは水がすぐになくなる。そうすると奥様がこまめに店内を回り、濡れたテーブルを布巾で拭き取り、冷たい水を注ぎ足してくれるのであった。そこには足音がたたない絨毯をゆっくりと歩み、お客の音への集中を妨げない配慮が常にあった。
サービスにおいてはほぼ完璧に近く、クラシック音楽好きを惹きつけやまないこの喫茶店は、しかしながら、お客側としても畏敬をもって入店しないとならない空間であったのだ。
〈吉祥寺『バロック』②へ続く〉