さて、クラシック音楽をかける名曲喫茶には、お店側の意向により「静かにじっくりと聴いてほしい場」と「フランクな雰囲気で自由に音楽に触れてほしい場」という対極のベクトルがあり、前者の最端に位置するのが、吉祥寺の”こんつぇると”であり、この”バロック”であったと思う。一方、後者としては、定期コンサートの催しがあったり、装飾にこだわることや珈琲の質を重視したものもあった。そういった独自の工夫も名曲喫茶の別の意味での特色であって、これはまた他所とは違う各々の個性として魅力を感じるものだった。そして私はこれらの端っこに位置する店、つまり個性大のお店が大好きだった。これらの店のしきたりというのは概して面倒くさいし、自身のプライドが傷つくこともある。しかし慣れてしまえば、そのしきたりの意図を容易に理解することもでき、何よりかえって居心地が良くなったりするものだ。でもこのバロックという店のハードルは高かったと思う。今でも色々なことをついつい想い出して、赤面したり微笑んだりしそうになってしまう。それはその時、思いも寄らないことでドキッとしたり、恥ずかしく思ったり、逆に素晴らしさに感激したりしたことが、今でも心の奥底深くに刻み込んでいるからだと思う。閑話休題。さらに詳しく書き連ねてみよう。

バロックの入口扉は、木目調のしっかりしたもので小さな鈴がついていたはずである。山の牧草地をイメージさせるカウベルみたいな音が、小さく鳴って来客を告げる仕組みだったと記憶している。店主は入って左手の細長の奥行きのあるスペースでオーディオの調子を見極めたり曲を聴いて物思いに耽ったりしていた。いつであったか、レコードリストでどうしても探せなかった曲を直接、主人に聞いてみたことがあった。なおこの店では通常、注文伝票のミシン目の下にリクエスト曲を書いて店主に渡すのが習わしとされている。「ダンディかぁ。あったかな、探してみるよ。」そんな優しい口調だったと思う。そして程なく「これでいいかい。」とLPを持ってきてくれた。ヴァンサン=ダンディの交響的変奏曲とフランスの山人の歌による交響曲だった。後年、私のお気に入りの曲の一つとなった。だがこの時は、なにより老店主が独りの若者だけのためにわざわざ聴きやすいものを探して持参してくれたこと、その心が何よりも嬉しかったのだ。曲の内容の方ではなく、主人とのやりとりの方ばかりが今もって鮮明なのである。

 

吉祥寺『バロック』③へ続く〉