国分寺に『でんえん』という名曲喫茶があった。
蔦の外壁が少し緑に色づいた古ぼけた外見からは中の様子は全く予想できない。柔らかい蝶番扉を押して中に入ると薄暗い店内の右手で女主人が独りで切盛りしている。内装は昔の土蔵の内部を改造し、隣接のスナックと分け合った構造であり、夜には微かに音が漏れ聞こえてくることもある。
店に入ると飲み物を置くテーブルすらない椅子だけの空間も存在し、そこは時としてサロン的な雰囲気も醸し出す。常連客はそこに集い、店内に流れるクラシック音楽をよそに会話に華が咲くこともある。しかしその空気感を良しとせずに、静かに楽しみたい者、親しい者同士で、ただ音楽だけに耳を傾けたい者は、そのサロンの真ん中を容赦なく突きっきり奥の空間へ。
店はL字構造なのだ。この直角九十度の棲み分けが極めて意味をなすものと感じるには、やはり常連の域に達しなければならない。この店はたいそう古く都内屈指の歴史があり、実は店内も注意深く眺めれば、構造は幾何学的でかつては音響設備も非常に充実していたことが窺われた。中央にはワーグナーのリングを初めて全曲録音したゲオルグ=ショルティの分厚いLPボックスが居心地悪そうに鎮座していた。店に収蔵されるレコードは他の店舗と比較してもけっして多いとはいえないが、選りすぐられたものだった。私がカール=シューリヒトやウィレム=メンゲルベルクなど往年の名演を知ったのもこの店であった。
〈国分寺『でんえん』②へ続く〉