僕の名曲喫茶物語。
まだ自分の頭の中にぼんやりと映像が残っているうちに名曲喫茶のことを書き残してみた。脳に張り付いた不確かな記憶のネガを基にしている。思いが強すぎて誇張が過ぎた表現になったかもしれない。それでも書き綴ってよかったと思う。読み手はそんな濃い喫茶店が世の中に存在した(存在する)のかと驚かれただろうか。それともそのような喫茶店あるわけがない、こいつはとんだほら吹きだと一笑に付しただろうか。しかし偶然にも同じように訪ねたことのある方がいたとしたら、記憶を掘り起こし、懐かしさや想い出の一部として共に感じてくれたのではないだろうか。
当時のJR中央線沿線の名曲喫茶はほぼ行き尽くした。しかし採り上げた喫茶は一部のお気に入りの店だけだ。全部は綴れない。思い入れのある店は内容のボリュームも膨んだ。一方で本当はもっと奥深い店のはずなのに、少し物足りないなという、紹介程度に留まったものもあったと思う。そういく度も通うことがなかったお店に関しては一切書かないことにした。私の先入観で間違ったことを書いてしまうと失礼極まりないからだ。おそらく魅力を感じなかった訳ではなく、自分と深く結びつく縁がたまたま無かっただけなのだ。そのお店が長い年月、その場所に存在するということは、それだけで「自分の知り得ない価値を残している」と敬意を払いたい。存在自体が素晴らしいことなのだ。
当たり前であるが生演奏に勝るものはない。でも過去には、名曲喫茶は日本人に広くクラシック音楽を理解してもらう、啓蒙的な役割を担っていたようである。それが豊かになったことで、いつしか家庭でコンポを組みオーディオとして楽しめる時代を迎えた。そして今やそれも廃れた。多くの名機を輩出したオーディオ機器メーカーは、その技術を別の分野に求め販路を広げるか、倒産して生き残ってもいない状態だ。そして高性能イヤフォンを使い、誰にも邪魔されずに独りで楽しむ時代へ。偶然にも何かの機会に、とある名曲に興味をもった人がいたとしても、ネット検索によりいとも簡単に全てを手に入れられる。題名や音源、解説や背景、レヴューに至るまで瞬時にである。
良いことなのだろうか。例えばオペラはリラックスした状態でたっぷり時間をかけて楽しむものだったのに、有名な場面を勝手な注釈付きで短縮動画で鑑賞できてしまう。様々な解説も単に知識的な好奇心を満たすだけで、自身の情報レベルを上げるための早道の一つとして扱われているようにも映る。音楽芸術に対する理解とは何だろう。観て触れて聴いて楽しんで、自分で感じるまま感想が言える、そんな状態ではないだろうか。つまみ食いのような聴き方は感動からほど遠い。他人の解説やレヴューもそれを簡単に鵜呑みにして、あたかも自分の考えのように変えてしまう、そんな危うさもないだろうか。
クラシック音楽はそもそも楽しむためにある。そして楽しむためにはある程度、まとまった時間が必要だ。時間をかけただけ自身に残る。それを今、体現できるのがやはり名曲喫茶である。人はいつか名曲喫茶の重要性に気付くはずである。スローに生きる世界を求めるときが必ずやってくるはずだ。現代社会に埋もれ黄昏ゆく名曲喫茶の姿をレクイエムとして書いたのではない。
癒やしと音楽芸術の理解の場として再び必要とされる、そんな時代が来訪する予感と淡い期待を抱きつつ、エピローグを閉じたいと思う。
読んでいただきありがとうございました。
〈おまけを載せました。よかったらご覧ください。〉