印象的だったのは二階に上がるまでの階段だった。この階段はただ店の壁沿いにつたうかたちで作られており、たしかに手摺りがなかった。壁に階段が張り付いてデザインされたような錯覚に陥る。そこを珈琲や紅茶やデザートを持った店の方がまったく危なさを感じさせない器用さで下ったり登ったりした。突拍子もない思いつきだが、私はそこにオペラのワンシーンを見た。薄暗い靴工房でザックスとエファが語らうさなかに、寝室にいた貴族崩れのユンカーのワルターが階段を下りてくる場面を。そしてその後、驚きと共にワルターとエファは互いに見つめ合うのだ。そんな古めかしいドイツの家屋を連想させる場所だったのだ。

長居をする目的であれば、やはりほんの数席しかない二階部に上がるのが最適だった。しかも冬が良い。暖かい空気が一階からじわじわ上ってポカポカするからだ。ぼんやりとしか思い出せないが、店で出す飲み物や軽食の調理場も二階の一角でおこなわれていた記憶がどこかにある。二階は特殊な空間だった。そして店の入り口から真上に当たる小窓からは、眼下に富士見通りが見下ろせた。東京に名曲喫茶は数多くあれど、高いところから外の大通りを眺められるところは他にはない。

冬の澄んだ青空の下、通りを行き交う国立に住まう人々を眼下に眺めた。国立は閑静で上品なイメージがあったが、このあたりは車も行き来し人通りも少し多かった。寒空にチャイコフスキーのトロイカなんかを聴きながら、上からボーッと見やることもあったと思う。座った者だけが気付かされる特等席。そこはいつも来訪客の多くが一番に目指す、お目当ての席だった。

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