中野にクラシックという名曲喫茶があった。
JR中野駅北口を背に真正面に構えるサンモール商店街のアーケード門をくぐり少し歩むと左手に小路がある。そこを入ってすぐのところ、ひっそりと古ぼけた佇まいが在る。世に名高い名曲喫茶「クラシック」である。中野は雑然とした街だ。店主がここに居を構えたのは如何なる理由かは存じ上げないが、店内外のこれまた雑然とし、古びた雰囲気が当時の中野を物語っているように感じられた。一方で小路の先に見えるサンプラザが天に向かうがごとく真っ直ぐにそびえ立つのもやはり中野なのだ。失礼を覚悟で申しあげると普通の人であれば壁も朽ちた感じの店外から、そこに入ることを躊躇うかもしれない。しかし。その入り口はクラシックに通じる各方面の人々が”聖地“と呼ぶに相応しい、引き寄せられる存在感を持っていた。
扉を開けるとすぐに小さな黒板がある。店内で今、演奏されている曲がチョークで書かれており、その下にはその後に約束されたリクエスト曲がズラズラと連なっている。曲が終われば横棒を引いて消されていく。SPレコードの所蔵量は特に都内一であり、リクエストの要望が叶えられないとすれば管理上、見つからない場合のみである。一方、飲み物は当時でも異常に安かった。珈琲は200円もしないのである。バブル経済下で「安い価格で名曲を心ゆくまでどうぞ」という強い信念を感じた名曲喫茶は、ここクラシックと阿佐ヶ谷のヴィオロンのみであったと記憶する。
私はいつもスピーカーの近くに陣取ることにしていた。そのわけは流れてくる音が一般的なオーディオから流れてくる精細な響きとは異なったためである。表現は悪いが、少しカスカスといった類いの響きなのであったのだが、長く聴くにはなんとも心地良いものだったのである。スピーカー正面の一階部は凹んで低かったのだろうか、人が通るたびにミシミシと音がして上層から木屑の埃がゆっくりと下りてくる。ゆえにデミタスカップの珈琲が、女性店員から運ばれると飲券プレートと交換し、即座に飲みきることにしていた。今思えば、火事や地震があったらひとたまりもなかったかもしれない。でも当時はそんなことは考えもしなかった。
〈中野『クラシック』②へ続く〉