残念なことに、この店を始められた美作七朗さんは、すでに引退しお会いできなかった。著名な画家でもある。もちろん氏の描いた油絵はよく憶えている。店内には何枚か選りすぐりの作品が壁に掛けられていた。そして私は当時、ある観点から気にはなっていた。先に失礼であったことをお断りしておくが、絵画から受けるその暗い人物像に対し気味の悪さを先に感じてしまったのである。メインテーマとも言える女の子の表情に直視できないほどの衝撃を受けた。少し恐怖を感じるほどの。しかし今、それは店内を照らすスポットライトのせいであったと言い訳をしたい。年を重ねると氏の作品から受ける感じ方はまるで異なる。高度な構図と油絵の具の大胆な色づかい。そして照明のあて方も、実のところ意味があったのかもしれない。当時の私には、絵なり造形なりを理解するには少々若すぎたのだろう。

乏しい灯りはそれ以外にも何やら煙たい空気を暖かく色をつけて照らしていた。あのクラシックの店内に響く名曲と絵画、薄暗い雰囲気、そして何より少々かび臭い匂い。店はとうに存在していない。それでもあの匂いは、訪れた常連たちの脳裏に深く刻まれているはずだ。嗅ぐとすぐに解る特殊なものだ。この匂いは中野のクラシックだ、と言える特徴的な匂い。

高円寺に「ルネッサンス」という、氏が戦前に初めて開業した当時の名称の名曲喫茶が存在する。心血を注いだ建物内部を、関係者が一部移築しているのだ。さすがにあの匂いまでは移すことは出来なかっただろうが、氏の一念を受け継ぐ店として存在し、その過去を遺産として受け継ぐ人たちによって今も守られている。

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