僕の名曲喫茶物語。
名曲喫茶とはなんだったのだろう。あれから30年以上の年月が流れた。私は東京・JR中央線沿線に居た。バブルで潤い、学生は皆、脳天気に青春を楽しんでいた。社会全体がすべからくうまく好循環し、人々がせわしなく行き来活動する世の中だった。もちろん経済がどんな状況であり一体、何処に向かっているかなど気にかけ考えることもない。適度に学び、よく遊び、金に困ればアルバイトをして小銭を稼ぎ、友と騒ぐためにサークルにも入る。まったく良いご身分だった。そんな多忙な、しかし充実した毎日の中で唯一、自分自身を見つめなおすところ、それが私にとっての「名曲喫茶」だったのかもしれない。
決してオシャレな喫茶店ではない。晴天の外界から店内に入ると薄暗く、先ずはよく見えない。そんな視力を失った中で耳を澄ませばクラシック音楽が自然と体内に入り込む。店内には珈琲の香りが漂い、その熱い液体を口にふくんで少しずつ流し込むことで更に感性を研ぎ神経を刺激する。ちょうど良い具合に弾力をもつシートは長時間、演奏を聴き続けることを暗に許し、来訪者の五感の働きを促進させる。店主は干渉しない。店は客に癒やしの場を与え、知らぬ間に説明できない魅力をも与えてしまうのだ。
程なく私はこのような異空間とも思える喫茶が中央線沿線に点在していることに気づいた。ネット検索もなく、紹介する雑誌や書物もない時代だ。街歩きで散歩中、幸運にも見つけてしまう時もある。大概、駅からさほど遠くない意外にひっそりとしたところにあったりするのだ。不思議とそれぞれが独自な個性を持ち、入らずには居られない好奇心をかき立てる何かがあった。
店を理解するには、その雰囲気に押されることなく、自らを溶け込ませようと努めることが必要だった。店の値打ちは一度や二度、訪ねただけでは解らない。そして見た目やうわべだけの印象だけで語られたくないもの。一見、朽ちかけた外見も内装も店のサービスも独特の匂いすらも意味があるのだ。何度も足を運ぶのだ。その場に溶け込めば、なんとも表現が出来ないほどの影響力を来訪者に与える空間、それが名曲喫茶だったのだ。