この喫茶店は中野の名曲喫茶クラシックに倣うかたちで珈琲も安く、たしか300円ほど。ケーキも少し小さめであったが、やはり同じぐらいに抑えられていた。照明は席ごとに設置されており、スポットながらかなり明るさは控えめで、お客さんが常にリラックスした状態で長時間くつろげる空間を作り出していた。もちろん会話も自由にできる。しかし窓もなく奥行きのある空間は実によく考えられており、奥のスピーカー群が劇場のステージのように少しライトアップされていて、前の席はスピーカーから発する音のみに集中できる、これは実に出来た内部構造だった。

このあたりで店主の人物像が必要だろう。一見、常に白地ワイシャツの着用を忘れない清潔感のあるスラッとした紳士タイプである。しかし真空管を使用した音響設備を全て、自らが作成した設計回路に基づいて創作してしまうほどの強烈な個性と才能の持ち主でもある。いつもはそんな内面を感じさせないほど、控えめな物腰で、美味しい珈琲を入れてくれる、笑顔の優しいところが印象深かった。銀製の丸いお盆に熱々の珈琲、ブランデー差しを乗せ、ウェイターのようにそっと近づき、「ブランデーを挿すか、ミルクをつけるか、ノーマルでいくか」顔の表情と指でサインを送ってくる。こちらがブランデーを指さすとチョンチョンと数滴垂らしてくれる。熱い珈琲の上で燻らす、ほのかな高貴とも言えるこの薫りは、この店特有のものと言っていいのかもしれなかった。昨今はドリップであれば珈琲豆に90℃以下で湯を注ぐのが、風味を引き立たせる最上とされるようである。しかしここでは熱々の湯をさーっと差すのが当たり前。そこにまたブランデーを注すと、冷めずに本当に熱いのだ。直接的な刺激は時として、脳の深くに意識することなく刻まれることもある。口の中に拡がる珈琲の熱さと薫りは、今でも印象深いよき想い出の一つで、この淹れ方はいつまでも続いてほしいものだ。

 

阿佐ヶ谷『ヴィオロン』③へ続く〉