さてヴィオロンには他の喫茶店ではちょっと真似できないもう一つの特色があった。不定期の催しものである。この喫茶店には少々ディレッタントなイヴェントがおこなわれており、私はとても楽しみにしていた。それは夜9時頃から始まる朗読会であり、SPレコードのコンサートであった。1、2ヶ月に1回程度しか開かれない、様々な分野の人たちが集まって開かれる秘密会のような催しだった。当時、学習院教授でいらっしゃったA先生が主催者であった。シェークスピアやオスカー・ワイルドの短編がメインで、老先生の若々しい声に引き込まれ、またあるときは背筋が凍るほどに地鳴りをするような低音の発声に驚かされた。作家のT先生、女優さんも顔を出すなど顔ぶれは豪華であった。そして若輩者の私もなぜかそこに紛れ込んでいたのだ。
SPレコードは、戦後まもないころまで製作され流通していた78回転盤といわれるものである。後発のLPレコードとは異なり、針を落としても片面は5分程度しか録音を維持できない。そのためにクラシックの小曲ですら数枚に分けられていた。盤自体もとても堅い材質であるが、それは高価な陶磁器に似て、少しでも扱いを雑にするとすぐに割れてしまうデリケートなものである。これを店の中央に鎮座するクレデンザによって再生させるのだった。この店では鋭角に切り出した鋭い竹針を使用して、レコードを裏返すごとに針を換えていた。もちろん鉄の針を使った方がより鮮明に音が再現されるわけだが、レコード自体にはダメージを与える。でも竹針を使用してもこの名器クレデンザはよく鳴った。選りすぐった竹だったのか、竹は竹なりの味わいというものがあったのだろうか。今となっては判らない。小物タンスのような大きさのクレデンザは、店内隅々まで行き届くような音を出す、本当に魔法の箱だった。50年も昔の往年の名指揮者、名演奏家の音を味わうひととき。電気を使わない箱から発する、あの鮮明な音色を今もって忘れない。私は中でもヴァイオリンのソロ曲が好きだった。本当の演奏に鮮明度の点においては遠いところにある。しかしクレデンザの箱の中で、ヴァイオリニストがまさにそこにいて、弾いている、そんな伝わり方なのだ。薄暗い店内に響き渡る、得がたい不思議な体験だった。そこにいた老若男女、社会的な立場も異なる人種が一つの箱を前にじっと耳を傾けてただただ集中した。数ある名曲喫茶の中で、このような特殊な空間を創り上げることができたところは、ここヴィオロンしか私の記憶にない。
〈阿佐ヶ谷『ヴィオロン』④へ続く〉