そしてご店主からも多大な影響を受けていた。暇があればリクエストばかりしていた私である。店主の助言で思わぬ展開に及んだのだ。常連さながらに珈琲を啜り、読書などをして格好をつけている私をみて、おそらく言わずには居られなかったのかもしれない。 「こんなところに居ないで好きなら本場で聴いてくればいい。行くなら今しかないよ。」そんな言葉だったと思う。私は衝撃を受けた。いきなりそんなことを言われるとは思ってもみなかったからだ。それからは渡航準備について色々とアドバイスが始まった。この頃はネットから簡単に情報を得、手続きが済むような時代ではない。こちらは学生だ。いかに安くあげるか、先ずは旅行会社を選んで、特割も調べる必要もある。初心者としてのハードルがあった。不安な私に「とにかく行けばどうにでもなるんだから。」と背中を押す。都内のビジネスホテルで半年あまりアルバイトした後、3ヶ月あまりドイツ、オーストリアを周遊することになった。
自身のことで恐縮だが、私が訪れたのは東西ドイツ統一の直後である。ベルリンの壁崩壊後、バーンスタインが東ドイツ市民の解放を祝い、新しい時代の未来像を期待し「歓喜の歌」を華々しく演奏する一方で、旧東ベルリン側に足を伸ばすと、全く異なるみすぼらしい風景が広がり、夜ともなると街灯もなく真っ暗、その後の東側の苦難の道のりを予想させた、そんなドイツだったのである。そんな複雑な状況下の最中、オペラやコンサートの鑑賞を、地方歌劇場、ホールに直に足を踏み入れることができたのだ。収穫は大きかった。
一店主のたった一言が、私の社会に対する価値観を変え、その後の人生の多くの部分に影響を与えたと言っても大袈裟とはいえないだろう。このヴィオロンという喫茶店が客に与えるのは単に音楽だけではない。客人と店主の関係も、密にして多くの展開がある。あれから30年以上も経過している。しかし感謝しても感謝しきれないきもちを、未だに抱き続けている。
〈レコード紹介へ続く〉